初めてカイちゃんに会ったのは台北だった。そのとき思ったのは「ちょっと変わった人」、もう少し具体的にいうなら「無国籍な人」という印象だった。

しかしながら、この「無国籍」という言葉、料理や音楽に対して使うことはあっても、人に対して使うことってあんまりない。「無国籍音楽」「無国籍料理」という言葉の並びで考えるのなら、国境を越えてしまっているという意味での「トランス・ボーダー」とでもいうべきか。そんなことを考えながらも、カイちゃんと話していくうちに、最初に感じたその印象はあながち間違ってはいないということがだんだんとわかってきた。

見た目からしてどこの出自かまったくわからない。肌は浅黒く、黒く縮れた髪は長く、後ろ手にしばってひとつにしていて、すこしばかり髭をたくわえている。頭には帽子をかぶっているが、それは本来台東の原住民がカゴとしてつくったものを「これは帽子にいいにちげぇねぇ」と購入して、頭の上にちょこんと載せていた。黒いタンクトップに、インドネシア的な模様がプリントされた布を腰に巻いている。既成概念にとらわれない自由な外見であることも、カイちゃんを不思議な人に見せていたけど、彼の無国籍さはそれだけでなかった。

中国の天津生まれのため母語はきれいな北京語。7歳のときに東京へ渡り、10歳から台北で暮らしたのち台湾の兵隊退役後、再び東京で建築デザインを学んでいるので、台湾語とともに日本語も話す。その日本語は流暢どころか、かなりへんてこなべらんめぇ調だからなおさらおかしい。「あっしは落語が好きなんでありんす。今度、一席、聞いてくだせぇ、ねえさん」と話す一方、台湾の町の成り立ちにもめっぽう詳しい。どこの誰がどのようにして建物を保存して利活用してきたか。近現代の町がもつ記憶を自身の解説を加えながらよどみなく通訳してくれる。さらには台湾人には珍しく飲んべえで、出会った日も明け方近くまで飲んでいたという。酒も好きなのだけど、人と話をするのが好きなのだろうなぁと思った。

あるときどうして落語が好きなのかと聞いてみると、自分の生まれ故郷である中国天津は、昔から「相声」という伝統話芸が盛んだったからだという。その話芸は漫才のようにふたりでやるものもあれば、落語や講談のようにひとりでやるものもある。天津は大阪のような港町で商業の町だから、そうした華やかな文化が育った。そして、カイちゃんはそんな下地があったからこそ、日本での暮らしのなかで自然と落語が好きになったという。

話を聞いていくと、カイちゃんだけでなく、カイちゃんの家族は大河ドラマができそうなほど何度も海を渡っていた。カイちゃんのお父さんは第二次大戦後の1947年、中国の内戦で両親とともに台北へ渡るが、大陸へ戻って進学することを決意した。その後、建築家として活躍するも、文革時代には「台湾に親戚がいる知識人」として過酷な時代を送っていたという。カイちゃんが生まれたのはそんな時代だ。カイちゃんが4歳のとき、1981年にお父さんは「交換学者」として東京へと渡り、30年間会えなかった自分の両親と再会を果たし、その3年後にカイちゃんも母親と一緒に東京へと渡った後、家族で台北へと移り住んだ。

台北のバーで一緒に飲んでいて、だんだんと酔いが回ってきたときにカイちゃんがいった。
「こないだのことですよ。いつもよく行く新橋の立ち飲み屋で飲んでいたとき、会社帰りのサラリーマンが“中国人は反日だけど、台湾人は親日だからいいよねぇ”って話をずっとしてたんでやんすよ。そういうの、おれ一番腹がたってねぇ。啖呵切ってやったんですよ。“おい、そこのおじさんたち。いったい誰が中国人で、誰が台湾人、誰が日本人だっていうんだい。えぇー?”って」

さぞや新橋のサラリーマンたちは、ぽかーんという顔をしていたことだろう。しかし、私はといえば酩酊していたにも関わらず、頭をがつんと殴られた気がした。普段いかに自分たちにとって都合のいい思い込みに支配されていたか。これまで疑うことなく思い込んでいたステレオタイプは、いかに自分たちの固定された狭い視野からのものでしかなかったのか。そのことにカイちゃんが言い放った「誰が中国人で、誰が台湾人」という言葉でハッとなって気づいたと同時に、頭のなかの地図がぐるぐると動いた気がした。新しく描かれたのはどこかの国が中心となったものではなく、海によって陸地が繋がっただけのもの。そこではこれまでそうしてきたように、人が行き交うことで音楽や祭り、料理などの文化が無国籍に入り混じっている。それは遠い昔のできごとではなく、私たちが生きる時代も脈々と行われているのだ。

第二次大戦後、中国の内戦で台湾に渡った人たちはカイちゃんたちの家族だけでなく150万人ともいわれている。「親日」か「反日」かは単なる結果であって、やってきたこと、やられてきたことは変わらない。自分たちのことを自分たちで正しく振り返ってこなかったツケは、まわりの国々だけでなく私たち自身にもおよんでいて、なにをよりどころにしていいかわからない宙ぶらりんな状態が続いている。卑屈さと鷹揚さの両極端を行ったり来たりしながら、どこにも追いやることのできないモヤモヤした気持ちがいつまでたってもつきまとう。

「なんかなぁ、なんだかねぇ」。
新橋のサラリーマンの気持ちも手にとるようにわかる私は、カイちゃんにそんな曖昧な言葉しか返せなかった。台北の騒がしいバーで、ジョン・レノンの「イマジン」が聞こえた気がした。

岡田カーヤ

ライター、編集者、たまに音楽家、ちんどんや。街の楽団「Double Famous」ではサックス、アコーディオンなどを担当。旅と日常の間で、人の営み、土地に根ざした食や音楽などの記事を書く。『翼の王国』『ソトコト』などで執筆。ワインとスープを飲み歩くのが好き。幼稚園児程度のポルトガル語を駆使しながら年一ペースでポルトガルへ通う。当コラムタイトル「HOLIDAY GOLIGHTLY TRAVELING」は、カポーティ『ティファニーで朝食を』の主人公のドアに掲げられている言葉から。