旅をしていて、そこが「世界の果て」であることを掲げている場所に遭遇したことがある。

ひとつめはノルウェーの北極海に面した小さな村の「World’s End Cafe」。以前は人が暮らしていたけれども、あまりにも冬の暮らしが厳しくて、今では夏の間だけ人がやってきて束の間の賑わいをみせる小さな村でのこと。すぐ目の前が海という立地に建てられた掘っ立て小屋は、カフェというよりもキヨスク。「ようこそ、ワールズ・エンド・カフェへ」と手書き文字で書かれた板切れがかかったドアノブを回すと、そこはあっという間に過ぎゆく夏の日差しで白く照らされた天国のような場所だった。ポルトガルやアイスランドでも、こうした最果ての地で「ワールズ・エンド・カフェ」に遭遇した。そのたびに名付けた人の自嘲的なユーモアを感じるとともに、ついに行き着いてしまった感じがして、ニンマリとしてしまった。なんとも言えない居心地の良さを感じながら。

どうも私は「世界の果て」であり「世界の終わり」に対して、はかり知れない恐怖とともに、憧れのような感情も同時に抱いているようだ。幼いころ育った家はすぐ裏がアメリカの米軍基地で、敷地内には巨大なパラボラアンテナが設置されていた。夜寝るときは、そのパラボラアンテナを狙ってソ連が核爆弾を発射するかもしれない、明日の朝、自分は目覚めることなく、死んでしまうかもしれない。そんなことを思いながら絶望とともに眠りについていた。たまたま夜更かしをしたとき、ジェームス・ボンドが謎の組織に盗まれてしまった核弾頭を探している映画をロードショー番組で見かけたときは恐怖で震え上がった。世の中のおとなたちは明日にでも本当に起こってしまうかもしれないことを、どうして娯楽として楽しめるか不思議に思った。

一方で、成長するにつれて好きになっていったのが、スタンリー・キューブリックの映画『博士の異常な愛情』、第三次世界大戦後、放射能に覆われた世界を描いた『渚にて』。レイモンド・ブリッグスの絵本『風が吹くとき』や中学生のときに読んだ新井素子『ひとめあなたに』、JGバラード『沈んだ世界』のような終末世界にもこわごわと興味をもつようになった。来るべきときがやってきたとき、その瞬間へと行き着いてしまったとき、はたして私はどんな行動をとるのだろう。昔から世界の終末に対する恐怖を始終感じながら過ごしてきたばかりに、そのことへ特別な思いも同時に抱いてしまったらしい。

カナダのオタワ近郊には冷戦時代、核シェルターとしてつくられた施設を公開している場所がある。「ディーフェンバンカー冷戦博物館」は見渡すかぎりの荒野に突如として現れる地下4階のシェルターで、1952〜1962年にかけて建設された。政府、要人、軍人たち約500名が30日暮らせるようになっていて、1998年に一般公開する前までは一般国民には知らされていないトップシークレットだったという。

細く長いトンネルをとおった先に現れる分厚い鉄の扉を入ると、まずはシャワールームと医務室があった。
「地下にまるまる4階建てのビルが埋まっていると思ってください。中はまるで迷路ですけどね」。案内役としてボランティアしている地元のおじさんは言った。閉所恐怖症の私はもちろん先に進めるはずもなく、みんなが見学している間、医務室で待っていた。静かな場所にひとりいると、不思議な気持ちになった。1962年のキューバ危機のときは14日間だけ使用されたことがあったらしい。この場所は時が止まっているようで、そうした生々しい記憶がそのままに感じられた。インテリアも当時のままで、まるで映画のセットを見ているような現実感のなさ。会議室では『博士の異常な愛情』のクレイジーな話し合いが今にも始まりそうな雰囲気だった。死体を外にだせないから、遺体がでた場合は、食料保存の冷凍庫に安置する予定だったとも聞いた。それにしても30日後、食糧が尽きたとき彼らはどうするつもりだったのだろう。この期間やりすごしさえすれば、現状を変えられると考えていたのだろうか。

それは世界の終わりか、始まりなのか。
陸地が果てた先には、海が広がっている。
私たちは、どんな状況におかれても生きぬく力をもっていると信じたい。
「世界の果て」へ行き着いてしまったとき、思わずニンマリしてしまうのは、世界の果てでだって生きていけるんだという自信と希望がこめられているからなのかもしれない。

岡田カーヤ

ライター、編集者、たまに音楽家、ちんどんや。街の楽団「Double Famous」ではサックス、アコーディオンなどを担当。旅と日常の間で、人の営み、土地に根ざした食や音楽などの記事を書く。『翼の王国』『ソトコト』などで執筆。ワインとスープを飲み歩くのが好き。幼稚園児程度のポルトガル語を駆使しながら年一ペースでポルトガルへ通う。当コラムタイトル「HOLIDAY GOLIGHTLY TRAVELING」は、カポーティ『ティファニーで朝食を』の主人公のドアに掲げられている言葉から。