カメラマンというものは、とかく朝日と夕日を撮りたがる。それが誌面や内容と直接関係なくてもだ。「いやいや、カーヤさんは寝ててください」とはいわれるものの、そんなわけにはいかない。まだ夜が明け切らない4時半、5時くらいにごそごそと起きだして同行する。たまに失礼して寝ているときもあるけれど。

朝日も夕日も美しいし感動もする。のだけれど、どこで見たって一緒じゃんという、ひねた思いも少なからずもっていた。しかしながらこうした撮影に同行して、いくつもの夕日や朝日を眺めているうちに、そんな思いを改めないわけにはいかなくなった。夕日が沈むまで、朝日が昇るまでの数分間をその場にいる人たちと共有することが、たまらなく愛しく、あとから思い返しても燦然と輝く時間だと気づいたからだ。

タイで2番目に大きい島、チャーン島でのこと。ホテル建設のために出稼ぎに来て掘っ立て小屋住まいをしているタイ人たちが、サンセットの直前、三々五々ビーチに現れて波打ち際に並んでいた。男も女も、子どもも老人も。一日の労働を終えた人々は、海風に吹かれていい顔をしている。その光景があまりにも美しくて、私以外の旅行客もわらわらと集まってきてその一団へと加わった。

現地の人も、旅行客も関係なく、海の向こうに沈む夕日の前に立ち尽くす。その間、誰も言葉を発さない。刻々と色を変える空の色に心奪われ、無心になってただただ眺める。隣を見ると、タイ人の若者がぽけーっと口を開けていた。その隣にいた太ったヨーロッパのおじさんも、茜色に頬を染めうっとりと目を細めていた。見渡すと、そこにいた人たちみんなが恍惚の表情をしていた。言葉は交わさなくても繋がっている感じがした。

普段早起きなんて柄じゃないのに、ハワイではどうしてか暗いうちにぱっと目が覚めるのでビーチへとひた走る。ときには車で。暗闇に少しずつ光があたり、辺りが黄金色に輝いてくると夜明けが近い。崖の上やビーチへと駆け寄って、波を見に来たサーファーたちと一緒になって水平線を見つめる。

まるで自分たちしか知らない秘密を共有したかのようなドラマチックな数分の間、やっぱり誰も言葉を発さない。太陽が昇りきって、あっけなく一日が始まると、突然、魔法がとけたように人々は動きだす。その場にいた人たちは、地球誕生の秘密を目撃した仲間であるかのような親密な余韻を残しながら。

いつからか、その場にいる人たちとの一体感を覚えながら朝日や夕日を眺めることを「朝焼け劇場」「夕焼け劇場」と呼ぶようになった。そして、こうした時間がかけえのない愛おしいものであることに、何年もかけてようやく気づくことができた。

スリランカ・コロンボで見た「夕焼け劇場」も生涯忘れられないものになった。訪れたのは2004年6月。10年近く続いた内戦が停戦状態にあるときだった。半年後、スマトラ沖地震が起こり再び内戦が始まったので、今にして思うと、実に短い平和な時間だった。

学生時代、散歩(=フィールドワーク)に行けるからという理由だけで選択したゼミは文化人類学だった。担当の教授の専門はスリランカだったので、不真面目な学生でありながらも、この国をめぐる構造や紛争のことはなんとなく知っていた。仏教徒であるシンハラ人が国民の8割を占め、残り2割のヒンドゥー教徒であるタミル人が、政府による徹底したシンハラ人優遇政策に不満をもち、1970年代から民族間の対立が高まっていた。1983年、タミル人武装派組織LTTE(タミル・イーラム解放のトラ)が政府軍を襲撃して13人を殺害した報復として、シンハラ人によるタミル人虐殺が各地で起こったのを機に内戦は始まった。

首都コロンボの海沿いにある芝生の公園、ゴール フェイス グリーンでは多くのコロンボ市民たちが憩っていた。とくにシンハラ人の間では、結婚前の男女交際はご法度とされているらしいのだが、それでも大好きな彼/彼女に会いたい若者たちは、ふたりの顔を隠すために雨が降っていなくても傘を開き、その中でひっそりと寄り添いながら愛をささやきあっていた。

夕方になると、傘のカップルは消え、一日の仕事を終えた人々で賑わった。あいにくの曇り空で、サンセットは見られそうもない。にもかかわらず、砂浜を見下ろす堤防に並んで、インド洋の水平線や波打ち際を眺めている一団がいる。なかでも、ひときわ目立っていたのが、まだ幼さが残る若い女性たち。キラキラと華やいだ色のサリーを身に着けて、波が寄せては返す様子を見ては、黄色い歓声をあげている。そんな彼女たちにつられて、散歩中のおじさん、おばさんと一緒に一団に加わって、しばらくの間、笑いながら海を眺めた。

少しずつ仲良くなったので、すかさず「どこから来たの?」「なにしに来たの?」と話しかけてみると、恥ずかしいのかうれしいのか歓声があがる。

最初はお互いに顔を見合わせてはいるものの、しばらくすると英語が得意そうな女の子が「私たちは、北のほうの村から2時間くらいかけてバスできたの」「今日は学校の遠足よ、ほらこっちが私たちの先生」と目を輝かせながら答えてくれる。そして、いつの間にか質問した私が逆に彼女たちに取り囲まれ「あなたは何人?」「どこから来たの?」と逆取材される始末。「日本人で東京からだよ」という答えを、彼女たちはまっすぐな瞳を向け聞いている。もしやと思って「あなたたちはタミル人?」と質問した。彼らの村は北部に多いと聞いていたからだ。すると「そうよ」と屈託のない答えが返ってきた。その隣では、シンハラ人らしい地元のおじさんと、おばさんが私たちのやりとりを笑いながら眺めている。「民族紛争」のある国でも、こうして日常的に対立する民族たちが同じ場所にいることを知った。

同じ年の12月に発生した地震による津波の被害は、とくにタミル人の居住地区でひどかったという。しかしながら、義援金の多くは政府軍へと流れて、タミル人地域まで行き着かなかったとも、その義援金によって政府軍とLTTEのバランスが崩れて、ふたたび内戦状態となったとも聞いている。

2009年、内戦が終結を迎える前は、LTTEが北部のジャングルの中で、一般のタミル人10万人以上を「人間の盾」として応戦し続けた。

「それはもう、昔の沖縄戦のようにひどい状態でしたよ。水も食料もない。逃げようとすると仲間から銃で打たれる。先にもあとにもひけない。まるで地獄絵図でした」。国境なき医師団として、スリランカに行っていた日本人医師に当時のことを聞いたとき、コロンボの公園で出会った彼女たちのキラキラした瞳を思い出して、その場に崩れ落ちた。

国籍も、民族も、言語も、国も、宗教も宗派も関係なく、夕日や朝日、そして波が寄せて返す様子にただただ心奪われながら無心に眺める。それはなんて平和で尊い時間なのだろうと改めて思う。

岡田カーヤ

ライター、編集者、たまに音楽家、ちんどんや。街の楽団「Double Famous」ではサックス、アコーディオンなどを担当。旅と日常の間で、人の営み、土地に根ざした食や音楽などの記事を書く。『翼の王国』『ソトコト』などで執筆。ワインとスープを飲み歩くのが好き。幼稚園児程度のポルトガル語を駆使しながら年一ペースでポルトガルへ通う。当コラムタイトル「HOLIDAY GOLIGHTLY TRAVELING」は、カポーティ『ティファニーで朝食を』の主人公のドアに掲げられている言葉から。