先日「東京キャラバン」というプロジェクトに参加した。熊本各地を旅しながら、それぞれの土地に伝わる郷土芸能の担い手やアーティストと出会ってパフォーマンスを一緒につくりあげ、最終的に披露するという試みだ。現地に行くまで、今回のリーダーである「コンドルズ」の近藤良平さん始め一緒に参加したバンドメンバーもなにが起こるかわからないというかなりのミステリーツアーだった。けれどもいざ集まって音を出し始めると、初めて出合う音やリズムだったにもかかわらず、するするとまとまっていって、荒削りながらも新しいなにかが生まれた感触を味わうという不思議な体験をした。

山鹿の灯籠踊り保存会のかたがたによるスローテンポな「よへほ節」は、エチオピアンジャズを喚起させ、ジャマイカのロックステディと気持ちよく調和したし、天草で出会ったハイヤ節の躍動感はアフロビートの地を這うようなグルーヴと一緒になって、最高のダンスミュージックとなりトランス空間を生み出した。

熊本各地で出会ったのは生まれたときから郷土の音楽が近くにあり、旋律やリズムが体にしみついている人々だった。山鹿の人たちは演奏がない状態で踊っても、腕のふり、足のステップひとつで音楽が聞こえてくるかのようだったし、ハイヤ節を演奏した天草の高校の郷土芸能部の女の子たちは、体全体で踊り、歌い、演奏していた。彼女たちの躍動感はなんともむき出しで、私たちおとなは胸を打たれっぱなしだった。

ああ、この感じ、なんか知っている。胸が熱くなって、こみあげてくるものに涙するこれはそうだ、ニューオリンズ。やっぱり高校生たちにパフォーマンスに出合って同じような思いにかられた。

カーニバルのニューオリンズ版、マルディグラは音楽にあふれた熱狂の祭りだった。いくつもの団体によって組織されたクルーはその年のキング&クイーンを先頭にフロートと呼ばれるデコラティブな山車をひき、キラキラと輝くネックレスやおもちゃを投げまくる。かつて、あのルイ・アームストロングも唯一の黒人クルー「ズールー」のキングになるのを夢見ていたという。

こうしたきらびやかなフロートを繋いでいたのが、地元高校生によるマーチングとダンスのチームだった。彼らがとにかく熱かった。マーチングといっても軍隊的な行進ではなく、ファンク・ミュージックのようでも、セカンドラインのようでもあり、トランペットやトロンボーン、スーザホンなどの吹奏楽器があおりたてるなか、スパンコールがギラギラと光る自作レオタードに身を包んだ女の子が見事な腰の振りをみせながら踊り狂う。彼らに見せかけの笑顔なんてなかった。この日のためにずっと練習してきたのだろう、体中から発せられる熱を感じた。パレードは週末ごとに、1ヶ月くらい続くのだけど、祭り本番前日の夕方にすごいものを見た。

そこはこれからパレードにでかける高校生たちの集合場所だった。各高校が集まってウォーミングアップとして音を出しているのだけど、隣で集まっているグループがカッコいい音をキメたらこっちも黙っちゃいられない。負けてたまるかといわんばかりに、大きな音を空に向かって吹き上げる。その横でダンシングチームが腰を振る。塀の向こう側からはそれを見たOB、OGらしきおとなたちが雄叫びをあげる。その盛り上がりを耳にした別のチームが、また振り絞るように音をだし、リズムをとり、腰をふって地を踏みしめる。これから2時間3時間ものパレードがあるというのにだ。

大人だったら絶対にこんなことしない。私も絶対にしない。自分の力量を経験値として知っているから、それに合わせて唇と体力を温存して、しっかりとやりきるという仕事的な選択をする。でも、彼らは違う。グラグラと燃え盛る気持ちに逆らわず、熱くなって騒いだ血潮を体いっぱいにめぐらせて、体全体でぶつかっていく。その光景、彼らの無鉄砲な情熱に予期せずに触れたわれわれおとなたちは、胸を熱くして涙した。

どうして彼らにはこんなことができるのだろう。もちろん、ひとつは若さゆえ。今を生きるのは若者の特権だ。明日のことはもちろん、1時間2時間先のことなんてどうでもいい。目の前のことを情熱をもって行うのみだ。もうひとつ、彼らを突き動かす理由として感じてやまないのは「かっこいいおとなたち」の存在だ。すぐ近くの先輩や、ちょっと先を行く憧れの人、道を照らしてくれる存在が身近にいるからこそ、彼らは自分たちの道を疑わず進んでいけるんだろう。ニューオリンズでも、天草でも。

ニューオリンズでは、夜な夜なライブをこなすミュージシャン、一年かけて衣装をつくり颯爽と現れるマルディグラ・インディアン、町の名士として尊敬されるトランペッターなど、かっこいいおとなたちにたくさん出会った。天草でも、かっこいいおとなたちがたくさんいた。我々一団の来訪に合わせて、地域の婦人会のかたたちが朝から料理をつくったり、場所をつくってライブをしたり、踊りの場をつくったりと、自分たちも楽しみながらのもてなしをする人々。そんな中、ハイヤ節にあわせて、上へ下へ魚のように自由に踊っている地元のお兄ちゃん、お姉ちゃん、おじさん、おばさんたちの姿を見て、かっこいいおとなを感じるとともに、彼らの血の中に流れるビートを感じた。

こうした土地の音楽がある場所に育ち、血の中にそのリズムや旋律が流れている人たちを、新興住宅地で育った私はものすごくうらやましく思っていた。でも、今回、熊本をまわって土地の音楽と混ざり合いながら、新しい音楽を生み出す感触をつかんだことで、たとえ後天的に体得したリズムや旋律であっても、血となって体を駆け巡らせるし、それを「誇り」に思うことで、自分の体になっていくのではないのかと。

学生時代、ジャズで演奏される黒人ならではのベタベタな三連のスウィングを体得する前は、「ちんどん屋じゃないんだから」とよく注意された。日本人があのグルーヴをだそうとすると、最初はたいてい跳ねてしまうのだ。でも、今では思う。ちんどん屋上等と。跳ねるリズムは、全国にその潮流をもつハイヤ節ならではのリズムだし、ちんどん屋にはちんどん屋のグルーヴがある。そして、ニューオリンズのグルーヴには、おいしい朝食をつくるビッグママやギラギラとダイヤの指輪を光らせるブラザーたちが、陽気に冗談を言い合っているかのような「訛り」がある。こうした土地の音楽、血のグルーヴ、地のリズムは、結局のところどこかで繋がっているんじゃないかとも感じている。

そんなことを考えつつ、はっとなって我に返る。はたして自分は、かっこいいおとなになれているのかどうか。きっと、いつまでたっても、スマートにかっこ良くなんてことはできそうにもない。それでも体を動かしながら、笑い、ふらふらしながらも突き進むことで、こうした道の存在を照らし出せれば。

岡田カーヤ

ライター、編集者、たまに音楽家、ちんどんや。街の楽団「Double Famous」ではサックス、アコーディオンなどを担当。旅と日常の間で、人の営み、土地に根ざした食や音楽などの記事を書く。『翼の王国』『ソトコト』などで執筆。ワインとスープを飲み歩くのが好き。幼稚園児程度のポルトガル語を駆使しながら年一ペースでポルトガルへ通う。当コラムタイトル「HOLIDAY GOLIGHTLY TRAVELING」は、カポーティ『ティファニーで朝食を』の主人公のドアに掲げられている言葉から。