先日、30年前の旅の記憶が突如としてよみがえったから驚いた。それまで一度も思い出したことなんかなかったのに、スウェーデン滞在中に食べた「カッレスキャビア」なる魚卵ペーストの味が、昨日食べたかのようにありありと口の中に広がったのだ。

高校2年生の夏、人生初の海外旅行だった。母と母の友人家族と一緒に、友人家族の友人、つまり私にとってはまったくの他人を頼っていった旅は、およそ3週間の日程のほとんどをスウェーデン最南端の都市マルメでアパートを借りて過ごした。
「カッレスキャビア」といってもキャビアにあらず、主原材料はタラコ。鮮やかな青地のチューブに赤いキャップ。本体にはにこやかな子どもの顔とKALLESの文字が黄文字で描かれている。アルミのチューブを絞ると、赤い粒々が自己主張するピンクがかったペーストがにゅっと現れる。それを薄く切ったライ麦パン、切り取り線でパキッと割れる薄い生地のクラッカーに載せて食べる。

「ゆで卵にもあうのよ」
アパートの借り主であるケイコさんは教えてくれた。スウェーデン人と結婚して子どもをもうけたあと離婚したけど、社会福祉が充実しているこの国で子どもと一緒に暮らすことを選択していた。在住は当時で10年近く経っていたと記憶しているから、すっかりスウェーデン人舌となっていたのだろう。本場の食べ方を教えてもらって、初めての異文化体験をむさぼるように食べた。

「あれは本当にスウェーデンの味です。今もたまに食べたくなります」というのは、この味を思い出すきっかけとなったブレケル・オスカル氏、日本茶を愛してやまないマルメ生まれのスウェーデン人だ。彼の単行本の編集をしたことをきっかけに仲良くなり、スウェーデンの朝食の話しをしているときに、突如として「カッレスキャビア」の味の記憶がよみがえったのだ。あれから他の北欧の国には行けどもスウェーデンには行っていないし、オスカル氏曰く、日本はもちろんスウェーデン以外で「カッレスキャビア」は見たことがないというというから、あのとき以降、口にしたことはなかったはずだ。

プチプチとした食感の奥にちょっとした生臭さ。日本人の味覚からするとかなりB級の味らしいけど、そんなのも含めて好きだった。しかしながら、そんな記憶の味をもうちょっと細部まで思い出そうと試みると、さっきまで鮮明だった味覚の輪郭が崩れ、風に吹かれたかのようにどこかへ消え去ってしまった。思い出そうとすればするほど、どんどん遠ざかる。きっと30年間、一度も思い出すことなくしまわれていた記憶は、真空パックや急速冷凍のようなものだったのだろう。久しぶりに記憶の表層へとでてきて空気に触れた瞬間、ほろほろと崩れ去り、あっという間に風化して当たりさわりのない記憶として片付けられてしまった。

岡田カーヤ

ライター、編集者、たまに音楽家、ちんどんや。街の楽団「Double Famous」ではサックス、アコーディオンなどを担当。旅と日常の間で、人の営み、土地に根ざした食や音楽などの記事を書く。『翼の王国』『ソトコト』などで執筆。ワインとスープを飲み歩くのが好き。幼稚園児程度のポルトガル語を駆使しながら年一ペースでポルトガルへ通う。当コラムタイトル「HOLIDAY GOLIGHTLY TRAVELING」は、カポーティ『ティファニーで朝食を』の主人公のドアに掲げられている言葉から。