特集「クラフトマンシップを巡る旅」にあたり、モノへの愛着について考えてみよう。今回は暮らしの道具として愛されてきた「民藝」を考えの切り口として、明治大学理工学部准教授の鞍田崇氏の話を元に編集した全5回のコラム内で、モノをより深く楽しみ、向き合って味わうためのヒントを探る。

Q:ところで「民藝」という字は、どうして「芸」ではなく「藝」なのですか?

A:実は、そこにもプロセスへのまなざしがひそんでいます。「藝」は「芸」の旧字体ですよね。そこから「芸」は、戦後に「藝」を簡略化して、新字体として作られた漢字だと思っている方もいるかもしれません。でも、もともと異なる意味を持つ字として存在してたんです。

Q:「芸」と「藝」、それぞれどんな意味なのでしょう?

A:まず読み方が違う。「藝」は”ゲイ”で、「芸」は“ウン”。「藝」が「植え育てる」であるのに対して、「芸」はもとは「刈り取る」という意味。植え育て、刈り取る。どちらも植物に関わる行為ですが、ステージが異なります。刈り取られるのは収穫物。ってことは、極端にいえば、成果、ゴールしか見てないってことですよね。一方、植え育てられるのは、成果に至るまでの途上、過程にあるものです。
「藝」といえば、琴や三味線、踊りなどの「藝事(げいごと)」もあります。いずれも、繰り返し反復が必要なもの。即席では身に付かず、時間をかけて徐々に習得されていく。そんなふうに「藝」の字には、時間の共有、その中で成長していくプロセスへのまなざしがひそんでいます。「日本民藝館」などの表記でいまでも「藝」が当てられている背景には、そういうことも関係しているのでしょう。もちろん「芸」を使うのが間違いということではありません。ただ、ともすると成果しか見ない方へと駆り立てられがちな現代だから、あえて「藝」にこだわるのもいいのかも。民藝に興味があるならなおさらね。

Q:「生産性」「成果主義」的な現在の良くない側面は?

A:ちょっと余裕がなくなってきますよね。それになんでも「買っておしまい」の生活になってる。浮いた時間で料理するわけでもなく、ましてや着るもの食べるものを自分たちで作るなんてこともない。時間はあるけど、生活をいとなんでいるというプロセスの実感がない。そんな空虚感の自覚もあってのことなんでしょう、商品への「カスタマイズ」のニーズが高まったりしてるのも。ゴールの消費だけじゃなく、プロセス的な価値を加えていく必要があるというのはみんなどこかで薄々と気が付いているんじゃないでしょうか。

Q:クラフトマンシップには、そんな現代人にアピールするところがある?

A: 多治見で〈ギャルリももぐさ〉がオープンするに際し、オーナーの安藤雅信さんは「消費社会から離れて、『もの』と人とのかかわりを」考え直したい、そのためにも「作る側と使う側にもっと密接な感情のやりとり」が必要、とおっしゃっていました。100年前の民藝にせよ、近年の生活工芸にせよ、人々のあいだに暮らしがスカスカになってく危機感があって、それに対するアンチテーゼ、警告を発するものとしても受けとめられてきたのだと思う。でも、たんに道義的な話としてではなく、根底には「感情のやりとり」、その楽しさがあったからこそ響くものがあったんじゃないかと思っています。

第四回の公開は、3/6予定です。

第一回 「いとおしさ」〜「用」と「美」の先に在るもの

第二回 手始めは産地を訪ねること

鞍田崇

哲学者。1970年兵庫県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。現在、明治大学理工学部准教授。近年は、ローカルスタンダードとインティマシーという視点から、現代社会の思想状況を問う。著作に『民藝のインティマシー「いとおしさ」をデザインする』(明治大学出版会2015 )など。
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