水がおいしい土地に惹かれる傾向がある。散策しながらあちこちで湧水を飲める土地は心躍るワンダーランドだ。水源があるたびに寄り道をして、飲み比べをしては清らかさを体へと染み渡らせる。そうした土地ではたいていの場合、わざわざ水源に行かずともタップをひねって出てくる水道水もおいしいからたまらない。ペットボトルを買うことなく、乾きを癒すことができる健全さに感謝しながらごくごくとのどをならす。

軟水、硬水のこだわりはない。一口飲むと体中を駆けめぐり、細胞レベルで覚醒するかのような感覚になれる水と出合うと、一気にその土地が好きになる。富山や飛騨古川、京都、アイスランドのレイキャビック、北海道の東川町、ポルトガルのシントラなど、水がおいしくて好きになった場所は、その土地のことを思うと清冽たる水が体内をめぐるかのような清らかな感覚がよみがえる。

スイスのチューリヒも水がきっかけで好きになった土地のひとつだ。でも、最初から好きだったわけではない。到着してしばらくはむしろ「こんなところではとてもじゃないけど暮らしていけない」と思っていた。スイスの物価の高さは定評がある。外食をしようものなら、そこそこのものでも軽く5000円を超えてしまうほどだ。

チューリヒ滞在2日目は「クンストハウス」という美術館を一日かけて取材していたのだけど、いつも持ち歩いている水筒を忘れてしまった。外にはでられないので、やむにやまれず館内のカフェで買ったミネラルウォーター(小)が700円したときは心底ゲンナリした。なんて国だ。水がこの値段なんてどうかしている。

その印象が変わったのは、翌日、街なかを散策しているときだった。チューリヒの街は散策がおもしろい街だった。アルプスからの伏流水が流れ込んだ水を満々とたたえたチューリヒ湖の周りには遊歩道が備えられていてのんびり歩くこともできるし、市内にはトラムやバスのネットワークが張り巡らせているので、どこへ行くにも便利で乗り換えもスムーズ。しかも車体がかっこいいから乗っていてわくわくする。物価が高いから、なにかを欲しいと思う気持ちにならず、物欲から解放されて気分がいい。道を歩いていると、ちょっとした広場や交差点、見晴らしのいい高台、ときには道の真ん中など、いたるところに噴水があるのも好ましかった。デコラティブな彫刻が施されている噴水はそれぞれに特徴的で、チューリヒの街を構成する景色のひとつになっていた。

「それぞれの噴水で味が違うという方もいらっしゃるんですよ」
現地コーディネーターのリツコさんの言葉に、私たち一行は全員「ん?」となった。
「飲めるんですか? これまで見てきた噴水の水、全部?」
「ええ、みなさん普通に飲んでいますよ。お腹を壊したという話しは聞きませんね」といって笑ったけど、私にはその冗談自体が理解できなかった。だって、こんなにもたくさんの噴水の水が飲める国なんてある? この人はなにも知らない日本人相手に冗談をいっているのかと疑いながらも、すぐ近くの噴水に駆け寄り、流れ出る水を手ですくって口に含んだ。清涼感のあるその水はするすると体を駆けめぐっていった。ああ、あの感覚だ。なんておいしい水なんだろう。

それ以降、噴水を見かけるたびに駆け寄っては水を飲んだ。味や口当たりは、それぞれの噴水で違っているように感じた。スイスの情報を世界へ発信する「スイス公共放送協会」によると、チューリヒにはこうした噴水が1221カ所もあって、飲料不可と書かれていないかぎり、ほとんどが飲めるようになっているという。そのうちの4割近くが地下水で、残りは上水道を利用しているが、水道水自体も地下水やアルプスの伏流水が含まれているので問題なくおいしい。そういえば、スイスでチョコレート生産や時計の製造が盛んなのは、こうした水のおかげとも聞いていた。精密機器製造に大量の水は欠かせない。チョコレートのなめらかさをだすためには、長い時間かけてカカオを練り上げるので、あれも精密機器と切っても切れない関係にあるのだという。街なかにたくさんの噴水があるのは、それが社交場でもあり、あふれだす水への信仰心からともいい、またはときの権力者の力の象徴であったともいう。なるほど、チューリヒという土地は水とともにある街だということを深く知った。そういえば、いつも使っているボトルもスイス製だった。さすがは水大国だ。

遠くアルプスを眺めながら水を飲んでいると、ハイジのことを思い出した。もちろん、アルプスの少女のことだ。ハイジがデーテおばさんと一緒におんじの小屋へ行く前、アルプスの麓の村に早朝着いたときのこと。ハイジはのどが渇いたおばさんのために水を汲みに行ったがなかなか帰ってこない。おばさんは「あの子、バカなのかしら?」と心配するが、ようやく戻ってきたハイジは息せき切って「おいしい水を探して、いろいろな泉をまわっていたの」とうれしそうに水を渡すあのシーンだ。スイスに来てみて、あれはこうした環境での話しだったのかと深く納得した。やはり、生活とともにある水場はそれぞれの行きつけの場所や好みなどがあり、そこでは井戸端会議などが日常的に行われるなど、ソーシャルな関係性も構築されているのだろう。そういう日常を知ってからは、チューリヒの街が大好きになっていた。「水が合う」とはこういうことをいうのだなと思った。そして、こんなにも水が豊富で誰も水を買う人が多くないからこそ、あの水は高かったのかと思うようになった。

一度、認識すると、さまざまなところで「水が合う」と思うようになってきた。チューリヒの街での移動で、ストレスを感じることがなかった。街を歩いていても、地下街を歩いていても、人々は東京よりも速いスピードで歩いているのにもかかわらず、ぶつかることがない。そもそも暮らしている人の絶対数が違うのだろうけど、建物や街の構造もまたいいのだろう。狭い国土だから工夫して、気持ちよく使おうという気持ちがあるように感じる。持ち家率は低く、ほとんどの人がアパート住まいだが、伝統的な建物のなかには中2階、中3階など空間を細かく仕切り、快適に過ごせるような工夫がされているところも多いと聞いた。

昼間はタクシーや自家用車など、公共の交通機関以外の車が街の中心部に入っていないことも快適さの要因だとも気づいた。チューリヒ空港に飛行機が着陸して所定の位置に着いたあと、間髪いれず飛行機のドアが開いたことも思い出した。閉所恐怖症の私は、飛行機が着陸してからドアが開くまでの間、人々が通路に並んでイライラを募らせる時間が恐怖でたまらないのだけど、チューリヒではその時間をまったく感じさせることなく、むしろとまどうほどの速さで飛行機から降ろされた。

湖畔にある伝統サーカスを見に行ったときもそう。かなりの人数を収容するテントの脇に設置されたトイレ用のコンテナには立派な制服をきたトイレ誘導がいて、「あなたは右奥」「そちらのあなたは左手前」という具合にてきぱきと人をさばいていた。そのおかげなのかトイレに行列はなかった。終演後も終わった瞬間、みんなが一斉にたちあがり、まるで行進のようにさっさと進んでいった。

せっかちなのか、合理的なのか。きっとその両方なのだろう。そうしたところも「水が合う」この街で、私は快適に暮らしていけると思った。美術館に行くときに水筒さえ忘れなければ。