夜、旅先に到着するのがわりかし好きだ。そもそもが貧乏性だから、さほど遠距離でない場合は明るいうちに到着する予定を組むので、現地に着いてすぐに「旅の本番」は始まる。けれども夜に着くとなにもできない。あとは寝るだけという宙ぶらりんの状態になる。それは、いわばどこにも属していないおまけの時間だ。だから気負うことなく、その土地の空気の中に身も心も委ねられる。冒険前夜の、脱力した高揚感とともに。

 初めての土地でも、慣れ親しんだ土地でも、夜はやさしく迎えてくれる。一年に一度は訪れているポルトガル、リスボンへ行くときは特に意識して夜半に到着する便を選んでいる。着陸態勢に入って高度を下げていく飛行機が尾翼を傾けたとき、街の光が突如として現れると、体中の血液がどくんと脈打つ。あまりにも日常生活からかけ離れ、実在するか不確かだった遠い土地が「本当にある」ことを、まず初めに教えてくれるのが闇夜に小さく輝くオレンジ色の街の光なのだ。

 とはいえ、実際に地上へと降り立ち、タクシーの窓から眺める夜の街は、よく知っている場所であるはずなのに、フィルター越しに見ているかのように現実感がない。夢か現か。どこにいるのかわからない中途半端な浮遊感。すべてを見ることができない分、ひとつひとつの明かりの向こうにあるものを思い描いてみたくもなる。ある人は上機嫌に、ある人は不機嫌に酒を飲みながら、静かに夜を過ごしている人たちのことを。そして彼らの生活のすぐ脇を走り抜ける私という存在もいる。つい数十分前まではなんの関わりもなく、空の上から眺めるだけだったオレンジ色の光の中に、今は確かに身を置いている。そんなことを確認する。翌朝の冴え冴えした光のもと、旅の本番が始まる前の、ちょっとした儀式のように。

 初めて訪れる土地でも、よっぽどの危険を感じないかぎり辺りをうろついてみる。深い夜に到着した台湾・台南でもふらりと外へでた。生活を感じる小さな道を選んで歩いていると、テレビの音、人の話し声、深夜営業の店の賑わい、南国特有の花の香りといった、街の肌触りのようなものが次々と立ち現れた。それらは親密でいてどこかなまめかしい。見て「知る」のとは違う、全身で「感じる」作業。初めての場所なのにとたんに街との距離が縮まった。

 同じく台湾、暗くなって到着した花蓮の宿の5~6km先に夜市があるというので、同行者4人で自転車を借りてでかけたこともある。街灯がぽつりぽつりとしかない暗い田んぼ道を、ママチャリのペダルを漕ぎながら進んでいると、中学生に戻ったかのように、甘酸っぱく懐かしい気分になった。そして、田んぼの向こうに、夜市の明かりが見えたときはっと息をのんだ。闇夜の中に煌々と輝くネオンがぽっかりと浮かんでいたのだ。夢の中にいるかのようにぽーっとなった。

 あれは本当のことだったのだろうか。あまりの現実感のなさに、ときどき思い返すときがある。きっと朝になったらあんな恍惚感は消えてなくなっているだろう。それでも、旅と日常のはざま、時折どこにも属さない宙ぶらりんの時間を意識的につくりたくなる。夜が見せる親密でやさしい魔法にかかりたくて。

岡田カーヤ

ライター、編集者、たまに音楽家、ちんどんや。街の楽団「Double Famous」ではサックス、アコーディオンなどを担当。旅と日常の間で、人の営み、土地に根ざした食や音楽などの記事を書く。『翼の王国』『ソトコト』などで執筆。ワインとスープを飲み歩くのが好き。幼稚園児程度のポルトガル語を駆使しながら年一ペースでポルトガルへ通う。当コラムタイトル「HOLIDAY GOLIGHTLY TRAVELING」は、カポーティ『ティファニーで朝食を』の主人公のドアに掲げられている言葉から。