“100万ドルの夜景”という呼称は、実は日本でのみ浸透している表現だという。そしてこのキャッチフレーズから真っ先に思い浮かべる都市といえば香港だ。クンフー映画のおかげで脳裏に残っている香港の街並みは、無数の屋台と色鮮やかなネオンサイン、そして夜になれば100万ドルのイルミネーションとして輝きを放つ高層ビルが密集している。エネルギッシュでちょっと猥雑な、典型的なアジアの大都市だ。
摩天楼と海を背にして走る
世界中の他のどこにこんなトレイルがあるだろう
香港のトレイルランニングが面白い、と最初に聞いたのはいつだっただろう。ええ、いったいどこを走るの?と疑問に思った記憶がある。香港の面積は東京都のおよそ半分で、街中には人があふれ、山は山でも見渡す限りの高層ビルの山しかないのに。ロードランニングもままならないくらいだ。
そうしているうちに、トレイルランニングのライターの仕事で香港を訪れる機会がめぐってきた。最初の取材相手はアドベンチャーレーサーとして活躍するライアンで、彼の一言をきっかけに香港トレイルのイメージが一変する。アメリカ出身のライアンは、香港を中心に多くのトレイルレースやアドベンチャーレース、また子ども向けのアウトドア教室をオーガナイズしているキーパーソンで、学生時代に訪れたこの地のアウトドアに魅了され、そのまま移り住んでしまったのだ。「だって、香港の国土の約7割が山なんだよ」
そう、意外にも香港は山の都市なのだ。人が住むのに適した平野部が限られており、その狭い面積に約700万人が密集するので、結果的に雑多なビル群が乱立することになった。裏返せば“山ばっかり”が実際なのだ。
香港では冬を迎えると毎週のようにトレイルランニングレースが開かれている。そういったレースを利用してトレイルランニングを楽しむという手もある。2016年にはランタオ島がスカイランニング世界選手権の舞台に選ばれ、総延長27kmのskyカテゴリーでは日本の第一人者・松本大選手が優勝、アジアチャンピオンに輝いた。
1時間ほどでアクセスできる海と摩天楼のトレイルがグルメや夜景に並ぶ香港のもうひとつの顔だった
観光地として人気のエリアから西に目を移すと、ランタオ島という香港最大の島がある。最近では香港ディズニーランドがあることで徐々に知られてきた。このランタオ島はまだ人口が少なく、新たに開発された都心部と牧歌的な田園風景が隣り合っていて、まだまだアジアの地方都市感が色濃い。本土側に負けず劣らず山が多く、また香港としては希少なビーチも点在する。2016年末には、この島を舞台にスカイランニングと呼ばれる山岳レースのアジア選手権が開かれた。
ランタオ島の山々は標高1000mに満たないけれど、森林限界が低く、それほど高い木が生えていない。つまり眺望がいい。視界がクリアなので、はるか先のトレイルを眺めながら進むことができる。海に面した断崖絶壁を眺められるパートも多く、短時間でハイアルパインな山遊びが適う。そんなトレイルが縦横無尽、編み目のように張り巡らされている。すれ違う人々も山好きの格好で、日本でいえばアルプスのような感覚だろうか。ただ日本よりも若者の数が多く、彼・彼女たちはライト&ファストな今どきのギアに身を固めている。トレイルランニング、あるいはアスレジャー的なアイテムだ。考えてみればそれも納得で、だってここは紛れもなく“低山”なのだから。日本アルプスとの違いはもうひとつ、ランタオ島には香港の中心部からフェリーや列車、あるいは車で1時間ほどでアクセスできてしまうということ。そして公共交通機関は夜を徹して24時間動き続けている。上の写真のような、空と海と大地のあいだのトレイルが日帰りで楽しめるのだから、トレッキングが若者たちに人気のアクティビティというのも納得だ。
香港トレイルのベストシーズンは冬、それもスピーディに駆けたいなら朝一番の涼しい時間帯に限る。そういって先導してくれたローカルのナビゲートでセッションしたのは、香港島から九龍湾を臨むウィルソントレイルの一部。こうして眺めると、山と山のあいだを縫ってところせましとビルが建てられていることがありありと実感できる。香港島のトレイルはハイカーの人数も少なく、非常に走りやすい。そしてもちろん、歩きやすい。
もちろんトレイルランニングも盛んで、ランタオ島でも本島でも、日本がオフシーズンとなる冬場に魅力的なロングトレイルの大会がいくつも開催されている。そこには少なくない人数の日本人トレイルランナーが訪れている。SNSのニュースフィードには毎年のように友人たちのポストが並ぶ。リピートして毎年の恒例にしている“香港ファン”も1人や2人ではない。手軽に楽しめる異国のトレイル、それは見知らぬ山に出合うのが好きなトレイルランナーという人種なら誰だって心躍るはずだから。
香港の夜は長い。眠らない、と表現したほうが正確かもしれない。その気になれば、山遊びのあとは香港グルメというまた別の快楽が待っている。チンタオビールの軽さは蒸し暑い夜のお楽しみだ。
香港には4つのクラシックなロングトレイルがある。そのひとつ、マクレホーストレイルは香港最高峰タイモーシャンを通過する。他に香港トレイル、ランタオトレイル、ウィルソントレイルがあり、総延長は約300kmとなる。
一連の取材を終えた最終日、フォトグラファーが本土のライオンロック(獅子岩)へと続くトレイルを登ろうと言い出した。もうすぐ日没だが、ヘッドライトを持って夜景を狙いたいという。きっと面白い写真が撮れるはずだからと。図らずも異国でのナイトトレイルとなったが、それほど危険は感じなかった。香港政府は健康増進のためにトレッキングを推奨しており、よくも悪くもルートは丁寧に整備されている。とくにライオンロックがある一帯のトレイルは危険箇所がしっかり舗装されていて、日中は地元の年配者が生活着のまま散策している。でも、今はさすがにほとんど誰ともすれ違わない。
小一時間ほど汗をかいてピークの岩盤帯にたどり着いた。眼下には100万ドルの夜景が広がる。対岸の香港島にある夜景スポット、ビクトリアピークからとは逆方向になる眺めに、世界各地の荘厳な名峰に抱かれたときとはまた違う高揚感に包まれた。そうか、これか。これだったのか。香港は山も面白い。ここにしかない山の楽しみが待っている。それは新鮮な驚きだった。
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