「インドには生きた手仕事がある」そう語るのは、ISSEY MIYAKE INC.のブランド〈HaaT〉トータルディレクター皆川魔鬼子氏。テキスタイルデザイナーとして第一線で活躍してきた彼女が、約40年前のインドで目にしたのは、使い込まれ人々の体に良く馴染んだ美しい布の数々だった。そしてその光景は、現在も〈HaaT〉のなかで生き続けている。
最新技術を駆使し、新たなものづくりに挑戦し続ける彼らは、今なぜ「手仕事」というとても原始的な方法を選択するのだろうか。第4話は、インド西の果てカッチ地方に位置する、テキスタイルの村へ向かった。

往復14時間のロードトリップ

アーメダバードから西に車で約7時間。〈HaaT〉のもうひとつの拠点をめざし、パキスタンとの国境付近に位置するカッチ地方へ向かった。派手にペイントされたトラック、ギュウギュウに人を乗せたリキシャ、鮮やかなサリーをなびかせて走る3人乗りのオートバイ、そしてたまに現れる牛やラクダの群れ。軽快にクラクションをならしながら、猛スピードで間をすり抜けていく。インドに来て数日……よく見る光景とはなったものの、車窓からの景色に飽きることはない。


途中、綿花や落花生、サトウキビの畑を通り過ぎ、さらに走ると真っ青な湖が現れた。よく見ると雪のように真っ白な山もある。正体は塩だった。塩といえば、植民地時代にガンディーが行った、塩の生産の自由化を求める抗議行動「塩の行進」から、インドでは自由の象徴のひとつとしても知られている。ここカッチ地方は、インドでも有数の塩の生産地。雨季には泥に覆われている湿地地帯も、乾季には水が干上がり一面がまっしろな塩の大地となるという。


厳しい土地が生んだ、美しい手仕事

しばらく進むと湖はなくなり、ひたすら赤茶色の大地がつづいた。カッチでは、一年を通して雨はほとんど降らない。寒暖差も激しく、夏の最高気温は50度にも達し、冬はマイナスになることもしばしば。また近年の気候変動の影響もあり、農作物を育てることも難しい。


そんな厳しい環境で唯一発展を遂げたのが、染色や刺繍などの手工芸だった。その歴史は古く、インダス文明まで遡るという。小さな鏡を布に縫いつけた「ミラーワーク」や、ブロックプリントを使った更紗「アジュラク」など、地域ごとに様々な技法が受け継がれている。


ブジョディ村の職人に会いに行く

この長旅の目的はカッチの小さな村、Bhujodi(ブジョーディ)に暮らす、織物職人の一家だ。

照りつける日差しのなか笑顔で出迎えてくれたのは、鮮やかなピンク色のシャツを着た、四男Shamji(シャムジ)さん。小さな門をくぐると、生まれたばかりの子ヤギのとなりで子どもたちが糸車であそんでいた。この村の職人はみな、こうして子どもの頃から伝統技法を身につけていくという。



ここブジョディは小さな村でありながら、綿や羊毛などインド織物産業の中心地。なかでもこの一家は、繊細な技術とその洗練されたデザインで世界中から注目を集めている。

シャムジさんの父、Vishram(ヴィシュラム)さんは、日本でいうところの人間国宝にあたり、伝統技術を支えてきたひとり。そして息子シャムジさんは、その高い技術を国内に限らず世界市場へと発展させた立役者である。

「技術はもちろんのこと、抜群にセンスがいい。一目でこの人たちと服を作りたいと思った」

そう語るのは〈HaaT〉トータルディレクター皆川魔鬼子氏。80年代からはじまった〈ISSEY MIYAKE〉とインドとの取り組みのなかで、彼らとの出会いは大きなものであったという。


家族で守り続けた技術

カタンカタン、カタンカタン…… 糸車や機織りの軽快なリズムが工房に響く。仕事は、家族全員が分担で行うという。シャムジさんの兄弟は、全部で6人。それぞれに染めや織りなどの担当があり、なかでも経験値のある長男や次男は、高いスキルが必要な工程を専門とする。


一方女性たちは手先の器用さを生かし、一本一本丁寧に糸を紡いでいく。どれも気の遠くなるような細かさで、技術と忍耐力が必要となる仕事ばかりだ。なかにはひとつ織り上げるのに9ヶ月かかるものもあるという。

「完成した瞬間はもちろん嬉しいです。でも、純粋にこうやってみんなで集まって作業している時間が私は好きですね」とシャムジさんは話す。


すべて手が、体が覚えてる

工房の奥では5男のDinesh(ディニーシュ)さんがインディゴの先染めをしている最中だった。何度も漬け込み、空気に触れるたび深いブルーに染まっていく糸をみた。


彼が使うものは全て天然のものだ。化学染料に比べ色は安定しにくいが、着ていくたびに少しずつ味がでるのは自然染料ならでは。彼が着ているシャツも4年ものだという。

素晴らしいのは見た目だけではない。手紡ぎ手織りの布には、機械には出せない着心地がある。手作業でのみ生まれる、糸の間の少しの隙間。そこから風が通り抜け、夏でも比較的涼しく過ごせるという。また、自然染料であるインディゴには虫除け効果もある。古くから使われているものには理由があるのだ。


彼は壺の中身を手でかき混ぜ、舐めて見せた。「ちょっとシュワっとするのは発酵している証拠。こうやって自分の手や口、体全身で会話して、その日の様子を記憶しています。インディゴは生き物だからね」聞けば、どの工程にもレシピやメモはなく全ては日々の作業から学んだことだという。


村から消えた手仕事

こうして、文字で残されることもなく代々受け継がれてきた素晴らしい技術の数々。しかし驚くことに、今ここで見ている技術のほぼ全てが、一度姿を消したものという。

すべての発端は、1960年代後半に起こった市場の急な拡大だ。安価で早く作ることが第一とされ、手間のかかる手織りは機械に、天然染料は化学染料に取って代わった。そして数年のうちに、この村から手仕事は姿を消したという。


古い布が教えてくれたこと

そんな状況を変えたのは、ジャムジさんが13歳のころから集めていた古布だった。父の影響で収集しはじめた布はいつしか100以上となり、それは趣味の域を超え、伝統技術の研究となっていた。

「私にとって古布はインスピレーションの宝庫でした。品質よりもスピードが求められていた機械織りでは思いつかないような、繊細でモダンな模様がそこに広がっていた。これを活用しない手はない!と火がつきました」

伝統技術に新たな可能性を見出したシャムジさんは、その魅力を国内だけではなく海外に発信しようと、古布を片手に各国を旅した。同時に父や村の年長者のもとで技術を学び、復活に向け試行錯誤を繰り返したという。

そして約20年の時を経て、1995年には天然素材・天然染料の使用が再開し、この村に再び手仕事が帰ってきた。ここ数年では、地元の遊牧民ラバリ族とローカルシープウールを復活させるプロジェクトが始まっている


シャムジさんが、ほんの3ヶ月ほど前に完成した新作のストールをみせてくれた。

これも、昔の技術の復刻版だという。もとは、ラバリ族がラクダにかけるブランケットなどに使われていた技法。とても丈夫だが重すぎるため、あまり普段使いには向いていない。そこでシャムジさんは素材を軽量化し、軽やかなストールとして生まれ変わらせた。しかしこれはシンプルな話ではない。当然のことながら、素材を変えれば、それに合わせて技術のアップデートも必要となる。一度消えてしまったものを取り戻すのには、時間がかかる。

「すべてが昔のように戻ればいいなんて、私は思っていません。それよりも、現代に生かせる方法で復活させたい。どんなに素晴らしい技術でも、使ってもらわなくては意味がないですから」


ブジョーディつくられている〈HaaT〉のストールと織り柄


未来を担う、子どもたちに向けて

ブジョーディ村はいま、変化の真っ只中だ。40年前の機械化とは比べ物にならない速さで、電気やインターネットも普及している。スマートフォンを持つ村人も珍しくはない。ただ40年前と確実に違うのは、便利なテクノロジーに囲まれながらも彼らがあえて『手仕事』を選択していることだ。

手で作ることが当たり前だった時代から、あえて手で作る時代。学ぶべきは「方法よりも理由」だとシャムジさんは語る。技術を学ぶだけではなく、なぜそれが今まで続いてきたのか、そしてそもそもなぜ『手仕事』でなくていけないのか…… シャムジさんは村の集会だけではなく、世界各国の講演でこの想いを伝え続けている。

変化の波はこの村だけにとどまらない。2005年には、職人のための学校、KRV(Kala Raksha Vidhyalaya)がカッチ地方Mundhraに設立された。授業は母国語であるグジャラート語で行われ、授業料も様々な団体からの寄付によりほぼ無料で受けられる。シャムジさん、父ヴィシュラムさんも、アドバイザーの一員として次世代の作り手の教育に力をいれる。


「技術の発展は私たちの子どもの世代にかかっています。彼らは『なぜ』を理解し、世界の市場に自らプレゼンテーションできる人でなくてはいけません。時間はかかりますが、こうやって少しずつ仲間が増えていくことは手仕事の希望です」

みんなで力を合わせれば、変わることはできる。ただそれは、シャムジさんのような、誰かひとりが声をあげることからはじまっている。インド西の果ての小さな村で、手仕事がまたひとつ未来を作っていた。


<<第5話 一歩戻って進むこと

<<第3話 伝統は誰のものでもない

HaaT
テキスタイルから発想するブランドとして2000年にスタートしたブランド。日本で開発する上質なテキスタイル、そして長く培われてきた技法を今の衣服に活かしたものづくりを行う。
isseymiyake.com/haat/ja