「インドには生きた手仕事がある」そう語るのは、ISSEY MIYAKE INC.のブランド〈HaaT〉トータルディレクター皆川魔鬼子氏。テキスタイルデザイナーとして第一線で活躍してきた彼女が、約40年前のインドで目にしたのは、使い込まれ人々の体に良く馴染んだ美しい布の数々だった。そしてその光景は、現在も〈HaaT〉のなかで生き続けている。
最新技術を駆使し、新たなものづくりに挑戦し続ける彼らは、今なぜ「手仕事」というとても原始的な方法を選択するのだろうか。全5話を通してその答えを探した。

2月末、まだまだ寒い東京を飛び立って初夏のインドへ向かった。 シンガポール経由で約14時間。アラビア海に面した半島に位置する、グジャラート州アーメダバードに到着した。空港から旧市街にあるホテルまでは約20分。初めて降り立ったインドの空気を身体いっぱいに感じようと、車の窓を全開にする。

インドと言って真っ先にイメージするのは川で沐浴をする人々…… そんな私の妄想は着いて早々に覆された。この街の中心を流れるサバルマティ川周辺はコンクリートで綺麗に舗装され、川沿いには高層ビルが建っている。想像していたインドよりは、はるかに都会的だった。


とはいえ、車に乗っているだけでも日本では見ない光景に次々と出くわす。4人乗りのオートバイや、リキシャという3輪タクシーが車線を無視して道路を縫うように走っていく。クラクションは鳴り止まない。そんな中、これぞ我が物顔というような表情で道路を横断する牛や野良犬たち。街の雰囲気はいよいよインドらしくなってきた。


道路に沿って屋台がいくつも並び、その周りを囲うように人が集まる。中でもひときわ多くの人で賑わう店があったのでバーかと思うと、そこはアイスクリーム屋さんだった。ここグジャラート州はインドで唯一の禁酒州で、アルコール類を販売することが法律で禁止されている。「食後に一杯飲む?」というより、「アイスでも食べに行く?」という感覚らしい。また、戒律の厳しいジャイナ教徒やヒンドゥー教徒が多く、大半が菜食主義だ。

今回の旅の目的は、そんなグジャラート州が世界に誇る繊細な手仕事。長い歴史の中で脈々と受け継がれてきた手仕事の軌跡を辿った。


綿布の街、アーメダバード

インドは世界一位の綿花生産量を誇る「綿花大国」。その歴史は古く、インダス文明が興った約7000年前から綿花の栽培が始まっていた。なかでもグジャラート産の綿花は品質・技術ともに最高レベル。「チャルカ」という糸車で手紡ぎされた細い糸を使い織られる綿布は、大航海時代にヨーロッパや東南アジア、中国など世界中で人気が高まった。


しかし18世紀後半、英国で産業革命が興り、インド国内においても機械化・工業化によって、手紡ぎ、手織りは少しずつ衰退していった。さらに大量生産された英国産の綿布が流入したことで、手仕事に携わる人々も激減。その技術を伝える人はいなくなってしまった。


インドの手仕事を支えた、ふたりの人物

19世紀に入ると、2人の偉大な人物の活躍により手仕事が再び注目されることとなる。

ひとりは、ここアーメダバードの出身で「インド独立の父」として知られる、マハトマ・ガンディーだ。彼は手仕事こそがインドの独立に不可欠なものだとし、英国綿布の代わりに国産の綿花を紡ぎ、自らの手で織ることを呼びかけた。

この運動の象徴となったのが手紡ぎ手織りの綿布「カディ」だ。彼はこの運動を通して手を動かしてものを作ることの大切さを人々に伝えていった。ガンディーが創設したアーメダバードのGujarat Vidyapith大学では、現在も教師と学生がカディを身に着け、授業の一環としてチャルカで糸を紡いでいる。ガンディーのこれらの活動は、インドにおける手仕事をただの仕事ではなく、思想や哲学へと変えていった。


もうひとりの人物は、ガンディーの思想を受け継ぎながら、独立後のインドでテキスタイルの再発見と復興に力を注いだマルタン・シンだ。彼はカディの精神面だけではなく、空気をまとうような軽さや通気性の良さなど、布としての機能性を世界に発信。また品質を守るため、織り手の育成や雇用にも力を注いだという。

ガンディーが「自由の布」として広めたカディは、こうしたシンの活動により、今や世界中の高級ファッションブランドが注目するテキスタイルとなった。


40年前のインドでみたもの

このインドの手仕事に魅了されたのが〈ISSEY MIYAKE〉だった。最初の出合いは1982年。インド政府と共にテキスタイルの復興に力を入れていたマルタン・シンの呼びかけで、三宅一生氏と当時テキスタイルディレクターとして活躍していた皆川氏がインドへ招聘された。そこで彼らが目にしたのは、日本では消えてしまった生きた手仕事だった。伝統技術を過去のものとするのではなく、その技術を現代に落とし込む。長い歴史のなかでそうやって受け継がれてきたインドの手仕事に魅了され、ふたりはひどく感動したという。

そしてここでのもうひとつの大きな出会いが、アシャ・サラバイさんだ。当時、「手仕事」を軸にブランドを立ち上げたばかりだった彼女の作品を見たふたりは、その技術の高さに惚れ込み、共同で服づくりをしていくことを決めた。1984年には〈ISSEY MIYAKE〉との協働プロジェクトが実現し、コレクションの名前は、彼女の名前をとって「Asha by MDS(Miyake Design Studio)」と名付けられた。


カディのはぎれをリサイクルする製紙工場。HaaTのアクセサリーの台紙は、ここで作られている。


〈HaaT〉2019春夏 Photo by Yuriko Takagi

HaaTとHaaTH

この取り組みをきっかけに2000年に誕生したのが、皆川氏率いる〈HaaT〉だ。インドで作られた〈HaaT〉のタグには、必ず「HaaTH(ハース)」の文字が書かれている。これはヒンドゥー語で「手」を意味し、アシャさんがものづくりで何よりも大事にしていた「職人の手の力」が、今も〈HaaT〉を支える根っこにあることを示している。

ないなら買う、それもネットで。そうやって動かなくても物が手に入る便利な時代において、「手」で作ることとはどういう意味を持つのだろうか。

生きた手仕事が今も残るインドで、その答えを探した。


タックの上にカングリという技法が施された、〈HaaT〉のカディコレクション

>>第2話 手の力を信じること

HaaT
テキスタイルから発想するブランドとして2000年にスタートしたブランド。日本で開発する上質なテキスタイル、そして長く培われてきた技法を今の衣服に活かしたものづくりを行う。
isseymiyake.com/haat/ja