灼熱の熱帯雨林から、荒涼とした火星の地表のような頂きまで。多様性に満ちたこの山は、低い緯度と高い標高の掛け算によって生まれた奇跡のような存在だ。

「登るだけで世界一周できるような山なんだよ」。友人から聞いたこんな言葉がずっと耳に残っていた。
低緯度にあるボルネオ島は沿岸部の平均気温が27度に達する典型的な熱帯気候であり、その高密度のジャングルにはオランウータンをはじめとした希少な動植物が生息している。このジャングルに屹立するマレーシア最高峰がキナバル山だ。この山では標高を100m上げると気温が0.6度低下する。こうした温度の変化によって高度ごとに、多種多様な植物たちがそのニッチを分け合いながら息づいている。そのなかにはマニアを虜にする希少な蘭や、奇妙な形態で人気の食虫植物ウツボカズラなどが含まれる。歩みを進めるごとに劇的な変化を見せてくれるキナバル山は、3,500mを超えると花崗岩に一面を覆われたノーマンズランドへと変わる。山頂に至ると平均気温は4度にまで下がっているが、緯度の低いこの山では季節を通して雪が降ることは稀だ。低緯度のジャングルにある4,000m峰だからこそ体験できる“世界一周旅行のような登山”を味わえる山、それがキナバル山なのだ。


登山の難易度は高くないが
登るまでが難しい

「日帰りのトレッキングは許可できない」キナバル国立公園ビジターセンターのレンジャーは申し訳なさそうな、けれど毅然とした態度で宣言した。
そもそもキナバル山トレッキングは、山小屋での宿泊と、山岳ガイドの同行が義務付けられている。しかも、山小屋には定員があり、それは一日150人程度に制限されている。しかし、事前に調べた情報によるとこれには抜け道があり、一日4組までは日帰り登山の枠があるという。これは10時間で登頂、下山を済ませることのできる健脚向けのパーミッションだ。この日帰りトレッキングに狙いを定め、キナバル山トレッキングを計画したのだった。
そしてたどり着いたビジターセンターでの日帰りトレッキング不可の宣告。聞けば、地震による崩落でコースの一部が変更したことで、日帰りトレッキングそのものが廃止されたそうだ。しかし、ここまで来て登れなかったでは話にならない。掛け合ってみたところ、一泊登山のパーミッションを出してくれるということになった。

「この雨は決して止まないよ。進むしかない」

ビジターセンターを出ると、そこにはすでに山岳ガイドが待っていた。小柄だがしっかりした体躯の中年男性はフレディと名乗った。標高1,866mに位置する登山口までは車で10分ほど。ようやく、キナバル山のとば口に立つ。靄がかったジャングルの中のぬかるんだ赤土を踏みしめながら歩く。高い湿度のために大量の汗が噴き出し、衣服が身体にべったりと張り付く。それでも一定のペースで登り続けると、徐々に植生が変わっていくことに気づくだろう。日陰を好むシダ類が姿を消し、背の低い灌木が増え、徐々にトレイルに射す光が増してくる。時には樹林帯の切れ目から眼下の稠密なグリーンのジャングルが見渡せる瞬間もある。

しかし、2,500mを超えたあたりから雲行きが怪しくなってきた。2,702mのラヤンラヤン・ヒュッテで食事休憩を入れたところで、とうとう猛烈なスコールに見舞われた。
「この雨は決して止まないよ。進むしかない」フレディはクールに言い放つ。この山では午前は晴れ、午後はスコールという定期的なサイクルになっているのだそうだ。雨具を着て覚悟をして歩みを進める。もはや植物の多様性に目を配る余裕もない。宿泊先のラバン・ラタ・ゲストハウスまでの500mで靴の中までずぶ濡れになった。

刻々と色彩を変える
高度4,000mの岩稜帯

標高3,272mに位置する山小屋では快適な夜を過ごすことができる。食事はお世辞にも美味しいとは言えないが、ビュッフェ形式で好きな量だけ食べることができるシステムはこの高度では贅沢の極みだろう。簡単な朝食を済ませ、日の出前に山小屋を出発する。昨日は雨に打ちのめされたものの、体力的には問題なかった。ところがどうだろう、3,500mを超えると途端に身体が重くなってきた。高度障害だ。暗闇の中を這うようにして進む。視界は効かないが樹林帯が終わり、花崗岩のすべすべとした岩稜帯に至ったことがわかる。時にはロープを伝って登らなければならない箇所も現れる。苦しさにもがきながら4,000mを超えると広い台地のような場所に着いた。

座り込んでふと見上げると西の空ではまだ輝きを失っていない星がくっきり浮かんでいる。一方、東の空は群青色に染まり、朝の兆しを見せていた。この360度のパノラマの舞台は彼方まで広がった花崗岩の岩稜帯だ。岩肌は深く沈んだ青から、青みがかったピンク、やがて暁色へと見る間に変化を遂げていった。太陽の力は偉大だ。光を浴びるとみるみるうちに力が湧き上がり、ここから山頂までの足取りは軽かった。標高4095mのロウズ・ピークには穏やかな風が吹き、眼下には緑のジャングルがどこまでも広がっていた。